紫式部のお父さん!藤原為時とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!紫式部は有名ですよね。あの長編ラブストーリーこと源氏物語を書いたからこそ。源氏物語なんですが今も歴史的な史料としてよく取り上げられていますがあの当時も話題になっていました。なんなら紫式部は源氏物語を書いたから彰子の女房になれましたからね。このように、彼女は今も昔も有名人です。だからこそ、思うんです。彼女の親は誰でどんな人なのかと。その名は藤原為時です。彼の知名度はそれほどだし身分は低い人でした。なんなら、10年間失職していた時もありましたからね?そんな家から紫式部という有名人ができたのと思っちゃいますよね?実のことを言うと彼がらいたから紫式部は源氏物語を書いたそうです。となると為時はあの有名作品ができるようになったきっかけの1人ではあります。何者なのと思いますよね?ですので、この記事にて話したいと思います!

藤原為時のプロフィール

名前 藤原為時

生年月日 不詳

950年頃に生まれたのではないかと推測されています。

没年 不祥

1029年という憶測はあります。

備考

紫式部のお父さんで平安時代中期の漢詩人でもあります。文才に恵まれ、宮廷詩人としての地位を確保していたため道長や頼通などがいる上級貴族たちが集まる詩会などにも顔を出していたそうです。

藤原為時の人生

以上が為時のプロフィールです。頭が良いのが分かりますね。では、彼はどんな人生を歩んだのか?

1.生い立ち

藤原為時は藤原雅正と藤原定方女(さだかたのむすめ)のもとに生まれました。生没年不詳です。一応「今昔物語集」には996年に越前守に任命されたという内容が書かれているためおそらく950年に生まれたのかとも言われています。為時は平安時代を代表する貴族・藤原氏の一族ではありました。家系図を辿ると摂関家につながる名門・藤原北家の流れをくむ家族らしいです。人臣として初めて摂政をつとめた藤原良房の弟こと藤原良門へと辿り着くそうです。また、為時のおじいちゃんにあたる藤原兼輔は中納言まで出世をし醍醐天皇の寵臣として活躍したそうです。さらに、三十六歌仙の一人にも数えられているため百人一首にも歌が収録されています。ですが、為時は上級貴族の道長たちとは違って下級貴族だったそうです。

2.花山天皇の秘書になる

官吏になることを目指し大学で学んでいた為時にチャンスが来ました。それは冷泉天皇の第一皇子である花山天皇の教育係に抜擢されたことです。また、984年に花山天皇が天皇即位すると為時は朝廷の人事などを司る式部省の役人こと式部丞と天皇の秘書こと蔵人になりました。このとき為時は30代後半だったと推測されますちなみに「後拾遺和歌集」には遅咲きの出世を喜ぶ為時の歌が収録されています。こちらです!

遅れても 咲くべき花は 咲きにけり 身を限りとも 思ひけるかな

ただ、この出世はある事件でストップしてしまいます。

3.寛和の変で失職

986年に19歳の花山天皇が突然退位して出家するという事件が起こります。あの寛和の変です。理由は兼家は権力が欲しかったからです。詳細としては即位させたい一条天皇はまだ7歳です。そこで、母方の祖父である兼家が摂政となれば権力を取ることはできます。そのためには花山天皇を潰さないといけません。そこで、道兼が花山天皇を出家へと誘導し花山天皇を出家させました。この事件のせいで為時は失職します。それから10年もの間官職に就くことができませんでした。

こんな仕打ちをされていたことから娘の紫式部にお前が男だったら良かったのにと言っていました。それは「紫式部日記」にそのエピソードが書かれています。こんな感じですね。

学問に熱心な父は、漢籍を読み聞かせて弟に学ばせようとしていましたが、弟は読み取るのが遅かったり、忘れてしまったりするのです。私の方がすらすらとできるので父はよく「お前が男だったらよかったのに」と嘆いていらっしゃいました」とのこと。

その発言から紫式部は父から受け継いだ文才を発揮し源氏物語を書きました。そのおかげで紫式部は歴史に名を残しましたからね。

4.職願いをする

あの当時官職につけなかった貴族はどうやって暮らしていたと思いますよね?為時のような下っ端の貴族の場合は上級貴族に雇われて家の中の仕事を取り仕切るような立場で働くこともあったそうです。
また、官職を得るために「申文」を書いて内裏へ届けることもあるそうです。その際に自身の経歴と、就きたい役職などを書き、内裏につとめる女房などに託して天皇または高位の太政官などに渡してもらえるように頼んだそうです。

5.越後守になる

後ほど話しますが為時の申文は一条天皇を唸らせるようなものでした。そのため、やっと赴任という形で官職に就くことになります。ちなみに赴任する国は、大国、上国、中国、下国の4つのランクに分かれています。それで為時ははじめは下国の淡路守に任命されました。ですが、これを不服として一条天皇に変えてくれと頼んだら大国の越前守に変更されました。それから為時は996年に娘の紫式部を伴って越前国へと赴任しました。

では、なぜ越前に赴任になったのか?その当時日本海側には宋からの漂着者が滞在していました。そこで、漢文に秀でた為時であれば渡来者にも適切な対応ができるだろうという判断にいたり越前守になりました。

6.最期

為時は1016年に三井寺に出家したとされその後の消息は不明です。ただ、1029年にいなくなったとは言われています。

藤原為時の逸話

10年も無職だったものの何とかして職が就けて良かったですね!そんな彼だからこそいくつかエピソードがあります。ですので、その話もしますね。

1.社交的ではなかった

為時は社交的な性格ではなかったとされます。「紫式部日記むの中には一条天皇も参加する集まりに招待されても顔を出さなかったそうです。また、道長が為時を宴に呼んだものの、さっさと帰ってしまったというエピソードが記されています。目上の人の招待でも参加しないって内向的な鑑ですね。寛和の変で失職後なかなか官職につけなかったのもあまり社交的ではなかったせいなのかなと思われます。実際に古今和歌集によると越前守になれたのは道長の口利きがあったからだそうですよ。

2.一条天皇が感動した為時の漢詩

「今昔物語」などに為時が一条天皇に申文を送ったエピソードが残されています。このようなものです。

苦学寒夜紅涙霑襟 除目後朝蒼天在眼

苦学の寒夜、紅涙が襟をうるおす 除目の後朝、蒼天眼にあり

夜と朝、紅と蒼の対句表現が印象的な漢詩です。蒼天には青空という意味だけではなく天帝という意味があります。この漢詩は一条天皇に文を届けようとしたものの渡すタイミングがなく代わりに道長が読んだそうです。一説によると一条天皇は為時の漢詩に心を揺さぶられ夜も眠れないほどだったそうです。

まとめ

初めの時為時が仕事がもらえないシーンが印象的でしたね。平安時代は身分制度に重きを置く時代だったから尚更です。本人からしたら苦しかったでしょうね。そんな中、花山天皇の秘書にもなれたのは嬉しいことだったかと思われます。それなのに寛和の変でまた失職ですからね。社交的でなかったと言えどもいつになったら報われるのと思うでしょうね。そんな中、一条天皇に自分の書いた漢詩が認められ、越前守になれたのは報いかと思われます。おそらく、本人にとっては遅咲きの花だと思います。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう