道長の娘!藤原彰子とはどんな人?

どうも、りかちゅうです!。紫式部、和泉式部、赤染衛門など多くの有名女房のして従え、大規模な文芸サロンを築き上げた人物がいます。その名前は藤原彰子です。彼女は道長の娘です。となれば、道長の出世のために活動していました。その具体例となるのは一条天皇との結婚ですね。定子が一条天皇の中宮になっているのに道長は彰子も中宮にさせました。これは同時に二人の正妻ができるという異例の事態です。戦国時代にもそんな事例ありましたね。それから、一条天皇との間に子を授かった彰子は子供達が次々に即位したことで道長の家系は栄華を極めることとなったのです。このように道長家系の中でもキーパーソンな存在です。では一体どんな人なのか?気の記事にて話したいと思います!

藤原彰子のプロフィール

名前 藤原 彰子

生年月日 988年

出身地 京都

没年 1074年10月25日(享年87歳)

備考

道長の長女です。道長の出世のために一条天皇と結婚することになりました。強引な結婚だったらしいですよ?そのため、ポジションは別妻です。また、紫式部は源氏物語で話題になったことから彰子の女房となりました。

藤原彰子の人生

以上が彰子のプロフィールです。では彼女はどのような人生を歩んだのか?

1.一条天皇に嫁ぐ

彰子は988年に道長と倫子の子として生まれます。どんな生い立ちかはあまり知られていません。ですが、彰子は若い時から家のために生きることになります。何事って?実は彰子が生まれた時の道長は一族の最高権力者の座を狙っていました。そんな道長に転機が訪れたのは995年の時です栄華を極めた道隆が病没しました。そのため、それ以降の道隆ファミリーの雲行きは怪しくなりチャンスと見た道長は12歳の彰子を強引に入内させることにしました。要するに、彰子は道長の野望に巻き込まれることとなったのです。ただ、一条天皇と彰子の歳の差があったため結婚したとは言っても「雛遊びの后」と呼ばれる男女関係をともなわないままごとのような夫婦だったと言われています。

2.サロンを作る

一条天皇の後宮知的な定子さまが清少納言を従えて活気のあるサロンを開きました。これに対抗し道長もまた彰子のために家柄のよい娘たちを数多く女房に集めサロンを作ろうとしています。その際に源氏物語の作者として有名な紫式部を彰子の女房につけました。なぜ紫式部なのか?それは一条天皇は紫式部を「日本書紀を読んでいるに違いない。教養のある人だ」と評価したからです。その噂を聞いた道長は彰子が紫式部のように天皇の心をつかむような知的な女性になって欲しいと思ったんでしょう。そこで、紫式部を彰子の女房にしたのかと思われます。サロンは道長の娘ということから大規模だったそうです。

3.定子の子供の養母となる

定子が亡くなったのは1000年の暮れのことです。この年は彰子が一条天皇の中宮として抜擢された時期と同じです。そのため、彰子はまだ定子が遺した敦康親王の養母となりました。理由としては彰子は中宮という立場であっても年齢が若すぎるため一条天皇との子どもは望めません。そこで、道長からしたら彰子が敦康親王の養母になることで次の天皇候補を身内にできるという思惑もあったのかと思われます。

4.一条天皇と子供を作る

彰子が一条天皇の子どもを出産したのは1008年の21歳になってからです。生まれたのは敦成親王という男子です。のちに後一条天皇となります。もちろん、出産のお祝いは盛大すぎるほどに行われました。これは道長の野望を叶える出来事となりました。そりゃ次代の天皇の祖父になるってことですからね?また、彰子は翌年にもまたのちに後朱雀天皇となる敦良親王を出産しています。

5.国母となる

敦成親王が後一条天皇として即位したのは1016年です。29歳になった彰子は玉座である高御座に座りました。そして天皇の生母であり国の母という意味の国母幼い天皇の政務を後見していきます。堅実な性格の彰子は公卿たちからも信頼される存在でした。また、その時の道長の体力はすでに欠け始めており実質的に婚姻の采配をしたのはとなった彰子だったのです。

6.出家し女院となる

彰子が出家したの1026年です。39歳です。早いですね。なんか後一条天皇も大人となったため安心して仏門に入ることができたそうです。ですが、女院となったのちに彰子は後一条天皇に先立たれその後を継いだ後朱雀天皇を後見することになります。それで終わりではないです。後朱雀天皇にも先立たれました。息子が自分よりも先にいなくなるって悲しいことですね。ただ、ずっと落ち込むことはせず孫の後冷泉天皇の代になっても相談役として朝廷で存在感を保ちました。その後も天皇の祖母という立場で国を見守り平和を願い続けた彰子は1074年に87歳で崩御しました。、当時としては珍しいほどの長寿です。

藤原彰子のエピソード

以上が彰子の人生です。87歳って長寿ですね。となれば、色々なエピソードはあると思われます。ですので、そこらへん話ますね!

1.真面目で淫らなことが嫌い!

紫式部は紫式部日記の中で彰子は上品で真面目て優しい性格だったそうです。「光る君へ」の彰子を見てもなんとなく分かりますね。また、だらしない恋愛を軽薄と考えていると言っています。非常に清廉潔白であることが伺えますね。私からしたらそうなのかよと思いましたね。理由としては平安時代は貞操観念がゆるゆるだったからです。出世してても遊びまくってる男もいたでしょうね。そんな中、彰子は淫らなことをできないという信念を貫ぬいていたのかなと思われます。また、そのような考えをしているからなのか紫式部は彰子のことを奥ゆかしくてとても上品な人と評価しています。これはお嬢様そのものですね。

2.道長を恨むこともあった

一条天皇は1011年に32歳の若さで崩御しました。その際に一条天皇が病に倒れてから亡くなる前に三条天皇に譲位し次の東宮に立ったのは彰子が生んだ敦成親王です。彰子もその考えに賛成していました。ですが、後ろ盾のない親王が東宮になれば争いの元となるだろうと考えた周囲の反対により叶えられませんでした。そのため、道長は敦康親王の処遇を彰子に隠そうとしたかったのかすぐには伝えていません。それ故に彰子は道長のことを恨んだと言っていたそうです。また、彰子は父である藤原道長の非情な政治姿勢に反発していました。

3.平安美人!

真面目な性格でありかつ平安美人の鑑だったそうです。「栄花物語」には一条天皇と結婚する時の見かけは幼稚らしさがないくらいな大人っぽく申し分ない美しさだったと書かれているそうです。12歳で大人っぽいって相当ですね。また、肌は色白で美しく酸漿をふくらませたように赤い頬をしていたそうです。また、大人っぽくても小柄なせいかたいへん若々しく見えたと言われています。見かけも中身もパーフェクトってことですね。

まとめ

初めは道長に利用されたような状況ですよね。平安時代のお嬢なんてそういうものですがいくらなんでもやり方は強引ですからね?正妻二人ってイレギュラーですし。それだけ道長は出世したかったんでしょう。ですが、そのような形で一条天皇に嫁いだとしてもそこからは覚悟を持って仕事をしていたと思われます。年を取れば取るほどそのマインドはあったのなと。これを見ても見かけはお淑やかでも中身は強い人なのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。