紫式部は越前にいる時何を思っていたのか?

どうも、りかちゅうです!紫式部って実はお父さんの為時の仕事都合で越前にいたことがあるんですよね。とは言っても1年くらいです。私が幼稚園時代の時に1年だけ北海道の札幌にいたのと似たような感じですね。私もお父さんの仕事都合でした。まさかの紫式部とそこが共通しているとは思ってもなかったです。紫式部に失礼だし本題に戻れって?申し訳ございません。紫式部は越前で何を思っていたんですかね?お父さんが仕事決まったことには嬉しくは思っているかと思われます。ただ、100%いい思いをしていたかと言われるとそうではないそうです。ですので、この記事にてそこら辺の話をしますね。

越前に1年間いた理由

紫式部は越前にいたことがあります。いたとしても996年から1年くらいで帰京はしましたけどね。その短期間だからこそ何で越前にいたのと思いますよね?ですので、その話をしますね。

為時が越前守に選ばれたから

為時は花山天皇の元で仕事をしていました。秘書まで上り詰めていましたからね?ですが、寛和の変で花山天皇は強制的に出家されました。道兼がそそのかしたからですね。そのせいで為時は職がなくなりました。その間は10年間ほど無職です。そんなの為時からしたら嫌ですよね。そこで、一条天皇に職願いをしたところ選ばれました。ただ、初めは淡路守という下国を任されました(その当時「大国」「上国」「中国」「下国」という国力の階級がありました)。ですが、為時はこの話が腑に落ちないと思い変えてくれ頼んだところ上国の越前を任されました。晴れての越前守ですね。そのため、為時は996年に娘の紫式部を伴って越前国へと赴任しました。為時もやっといい仕事が見つかりましたね。

※為時の詳細はこちらに書かれています!

紫式部のお父さん!藤原為時とはどんな人?

なぜ為時が越前に赴任となったの?

いくら下国の淡路守が嫌だとは言っても実力がなきゃ出世も何もないです。ですが、為時にはある実力がありました。それは漢詩が秀でていたことです。為時は学者気質で日々勉強熱心でした。その中でも漢詩はできる方でした。それ故に出世はできました。だとしてもなんで越前なのって?実はその当時70人ほどの宋国人(今で言う中国人)が上陸し越前に移送されていたからです。その宋国人は貿易のために来てたそうです。日宋貿易ってやつですね。となると宋人との折衝する必要があります。そこで、急遽漢詩に堪能な為時が抜擢されたそうです。

越前で何をしてたのか?

紫式部の越前での暮らしぶりに関してのデータはそんなにないです。ただ「紫式部集」には国府で詠まれた歌が残されています。そのうちの1つにこのようなものがあります。

暦に、初雪降ると書きつけたる日、
目に近き日野岳といふ山の雪、いと深く見やらるれば

ここにかく 日野の杉むら埋む雪
小塩の松に 今日やまがへる

暦に 初雪が降ったとしるされる今日
近くに見える日の岳という山に、雪が深く積もっている

日野岳の杉林は雪に深く埋れんばかりだ。
今日は、都でも小塩山の松に雪がちらちらと散り乱れて降っていることであろうか。

紫式部も国府の館から眺めて親みうとしていたいたのかと思われます。一方で杉と松の対比をしています。となると、雪も越前のほうが深いので都の暮らしを懐かしむというか気持ちはあったのかもしれません。また、越前にいる紫式部に求婚者の藤原宣孝から手紙が届いたこともありました。そのため、その手紙が来たくらいから結婚を前向きに考え始めたのかと思われます。それから、1年に及ぶ越前での暮らしに終止符を打ち為時の任期明けを待たずに都へ帰ることとなります。

紫式部の不安

越前の経験はプラスにはなった一面はあるのかと思われます。じゃないと雪が降った時のことを和歌にしないですからね。ですが、本当は不安もあったそうです。ですので、その話もしますね。

1.下向中の不安

越前に下向したのは996年の夏以降でした。その際に粟田口から山科を経由して逢坂山を越え大津の打出浜に出てから船で琵琶湖西岸を北上した。その途上で紫式部はこのようあ和歌を詠んだそうです。

三尾の海に 網引く民の てまもなく 立ち居につけて 都恋しも

琵琶湖西岸の高島の三尾の崎で、漁のために綱を引いている漁民が、手を休めずに、立ったりしゃがんだりしているのを見ていても、都が恋しいものです

これまで都にしか住んだことがなかったからこそ恋しくなったのかと思われます。

2.暮らしにも不安に思っていた

琶湖北岸の塩津に上陸し国境の塩津山を越えて越前の敦賀に入ったそうです。その際に紫式部はに和歌を詠んだそうです。

知りぬらむ ゆききにならす 塩津山 よにふる道はからきものぞと

わかったでしょう、あなたたちは往き来に慣れている塩津山だけど、世を渡っていく道としては、塩という名であっても、つらいものだと

これはこれからの越前での暮らしへの不安が詠まれているものと思われます。慣れない場所に行くなんて心細くなりますもんね。

3.都を懐かしんでいた

先ほどの越前での雪に対しての和歌でも分かりますね。松の方がいいみたいなことを言っていましたからね。からの人々が雪をかいて小山のように積み上げると女房たちは珍しがったり登ってはしゃいだりしていたそうです。ですが、紫式部は呼びかけられてもうっとうしく感じるだけだったらしいです。都の知り合いとも離れていたから余計にそう思っていたのかもしれませんね。しれもあって、都にいたときは、友人と歌を詠み交わしもしたが、そういう記録も残っていない。淋しさを募らせるばかりだった

越前から離れたかった?

懐かしんでいる時点でそうでしょうね。自然に恵まれていたとはいえ友人と離れるなんて嫌ですし。そのため、997年の春を迎えたころ藤原宣孝から求婚の歌が届き何度か歌を交わし合ったのちに998年の春に紫式部は宣孝との結婚のために都へ帰りました。為時を置いていくまでってことは一刻も早く離れたい地だったのかと思われます。

まとめ

紫式部は社交的な方ではありませんでした。お父さんに似たのかもしれません。彰子の女房になる時もこんな自分がいいのかみたいに思っていたそうです。このような性格だと越前での引っ越しは本当は嫌だったのも無理ないです。また、「光る君へ」では紫式部は越前にいてもポジティブな感じです。これは相当脚色していますね。私自身このギャップに驚きました。これを見ても越前ネタに関してはドラマとは違うのかと思われます。まあ、とにかく、紫式部は本当は引っ越しブルーであったのかと思われます。以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

りかちゅう